一
「随分遠いね。
元来どこから登るのだ」
と
一人が
手巾で
額を拭きながら立ち
留った。
「どこか
己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も
体躯も四角に出来上った男が
無雑作に答えた。
反を打った中折れの茶の
廂の下から、深き
眉を動かしながら、見上げる頭の上には、
微茫なる春の空の、底までも
藍を漂わして、吹けば
揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に
屹然として、どうする気かと
云わぬばかりに
叡山が
聳えている。
「恐ろしい
頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の
杖に身を
倚たせていたが、
「あんなに見えるんだから、
訳はない」と今度は
叡山を
軽蔑したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは
今朝宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに
歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを
煽いでいる。
日頃からなる
廂に
遮ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き
額だけは目立って
蒼白い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に
曝して、
粘り着いた黒髪の、
逆に飛ばぬを
恨むごとくに、
手巾を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、
頸窩の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに
掻き廻した。
促がされた事には
頓着する
気色もなく、
「君はあの山を
頑固だと云ったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような
按排じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、
空いた方の手に
栄螺の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の
角から
斜めに相手を
見下した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の
洋杖を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや
否や、
歩行き出した。
瘠せた男も
手巾を
袂に収めて歩行き出す。
「今日は
山端の
平八茶屋で
一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途
半端になるばかりだ。
元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
瘠せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく
喋舌り続ける。
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも
見損ってしまう。
連こそいい迷惑だ」
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか
見当がつかんじゃないか」
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。
瘠せた男は無言のままあとに
後れてしまう。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に
貫ぬいて、
煙る柳の間から、
温き水打つ白き
布を、
高野川の
磧に数え尽くして、長々と北にうねる
路を、おおかたは二里余りも来たら、山は
自から左右に
逼って、脚下に
奔る
潺湲の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は
更けたるを、山を
極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の
裾を
縫うて、暗き陰に走る
一条の路に、
爪上りなる向うから
大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の
尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。
「おおい」と後れた男は立ち
留りながら、
先きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり
閑と行き尽して、
萱ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く
伸して、返れ返れと二度ほど
揺って見せる。桜の
杖が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う
間もなく、彼は帰って来た。
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな
丸木橋を渡るのは妙だぜ」
「君見たようにむやみに
歩行いていると
若狭の国へ出てしまうよ」
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に
聴いて見た。この橋を渡って、あの細い道を
向へ一里上がると出るそうだ」
「出るとはどこへ出るのだい」
「
叡山の上へさ」
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、
仰せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、
歩行けるか」
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると
一人前だがな」
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから
尾いて来るかい」
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
渓川に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、
辛うじて
一縷の細き力に
頂きへ抜ける
小径のなかに隠れた。草は
固より去年の
霜を持ち越したまま
立枯の姿であるが、薄く溶けた雲を
透して真上から射し込む日影に
蒸し返されて、
両頬のほてるばかりに暖かい。
「おい、君、
甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い
体躯を
真直に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、
遥か向うには、
白銀の一筋に眼を射る高野川を
閃めかして、左右は燃え
崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと
擦り着けた背景には
薄紫の
遠山を
縹緲のあなたに
描き出してある。
「なるほど好い
景色だ」と甲野さんは例の長身を
捩じ向けて、
際どく六十度の
勾配に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの
間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と
宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも
疾くに心得ている」
「ハハハハそれで君は
幾歳だったかな」
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す
了見だと見える」
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は
雑作もなく言って
退ける。
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「
冗談を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと
退いてやれ」
百折れ
千折れ、五間とは
直に続かぬ坂道を、
呑気な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の
丈に余る
粗朶の大束を、
緑り
洩る濃き髪の上に
圧え付けて、手も
懸けずに
戴きながら、宗近君の横を
擦り抜ける。
生い
茂る立ち枯れの
萱をごそつかせた
後ろ姿の
眼につくは、
目暗縞の黒きが中を
斜に抜けた
赤襷である。一里を
隔てても、そこと
指す
指の先に、引っ着いて見えるほどの
藁葺は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、
棚引く
霞は
長しえに
八瀬の山里を封じて
長閑である。
「この辺の女はみんな
奇麗だな。感心だ。何だか
画のようだ」と宗近君が云う。
「あれが
大原女なんだろう」
「なに
八瀬女だ」
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度
逢ったら聞いてみよう」
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく
雅でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、
悌、だのってさまざまな奴があるから」
「なるほど、
蕎麦屋に
藪がたくさん出来て、牛肉屋がみんな
いろはになるのもその格だね」
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は
廃せばよかった」
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう
後足で石を
転がしてはいかん。
後から
尾いて行くものが
剣呑だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて
枯薄の中へ
仰向けに倒れた。
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を
唱えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の
杖で、甲野さんの
寝ている頭の先をこつこつ
敲く。敲くたびに杖の先が薄を
薙ぎ倒してがさがさ音を立てる。
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「
反吐が出そうだ」
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも
一と
休息仕ろう」
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も
傘も坂道に転がしたまま、
仰向けに空を
眺めている。
蒼白く
面高に
削り
成せる彼の顔と、
無辺際に浮き出す薄き雲の
然と消えて入る大いなる
天上界の間には、一塵の眼を
遮ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。
宗近君は
米沢絣の羽織を脱いで、
袖畳みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う
間に
諸肌を脱いだ。下から
袖無が
露われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした
狐の皮が
食み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。
千羊の皮は
一狐の
腋にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は
斑にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど
性の悪い
野良狐に違ない。
「
御山へ
御登りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ
妙な
所に寝ていやはる」とまた
目暗縞が下りて来る。
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として
天を
眺めている。
「そう泰然と尻を
据えちゃ困るな。まだ
反吐を吐きそうかい」
「動けば吐く」
「
厄介だなあ」
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界
万斛の反吐皆
動の一字より
来る」
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を
担いで
麓まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々
辟易していたんだ」
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は
愛嬌のない男だね」
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、
一分でも余計動かずにいようと云う算段だな。
怪しからん男だ」
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを
斃す
柔かい武器だよ」
「それじゃ
無愛想は自分より弱いものを、
扱き使う鋭利なる武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに
詭弁を
弄するね。そんなら僕は御先へ
御免蒙るぜ。いいか」
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、
毛脛に
纏わる
竪縞の
裾をぐいと
端折って、同じく
白縮緬の
周囲に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き
懸けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる
岨路を
飄然として左へ折れたぎり見えなくなった。
あとは静である。静かなる事
定って、静かなるうちに、わが
一脈の命を
託すると知った時、この
大乾坤のいずくにか
通う、わが血潮は、
粛々と動くにもかかわらず、音なくして
寂定裏に
形骸を
土木視して、しかも
依稀たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき
有耶無耶の
累を捨てたるは、雲の
岫を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての
拘泥を超絶したる活気である。
古今来を
空しゅうして、
東西位を
尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ
化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も
紫も吸い尽くして、元の五彩に
還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、
詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の
此方側なるすべてのいさくさは、肉
一重の垣に
隔てられた
因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ
情けの油を
注して、要なき
屍に
長夜の踊をおどらしむる
滑稽である。
遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また
歩行かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の
痕迹を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて
髄にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に
膨れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に
半ば掛けたる編み上げの
踵を見下ろす
途端、石はきりりと
面を
更えて、乗せかけた足をすわと云う
間に二尺ほど
滑べらした。甲野さんは
「万里の道を見ず」
と小声に
吟じながら、
傘を力に、
岨路を登り詰めると、急に折れた
胸突坂が、下から来る人を天に
誘う
風情で帽に
逼って立っている。甲野さんは
真廂を
煽って坂の下から真一文字に坂の尽きる
頂きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を
漲ぎらしたる
果もなき空を見上げた。甲野さんはこの時
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、
雑木の間を四五段
上ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、
湿っぽく思われる。路は山の
背を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。
近江の空を深く色どるこの森の、動かねば、その
上の幹と、その上の枝が、
幾重幾里に
連なりて、
昔しながらの
翠りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を
埋め、三百の
神輿を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、
三藐三菩提の仏達を埋め尽くして、
森々と半空に
聳ゆるは、
伝教大師以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。
右よりし左よりして、行く人を両手に
遮ぎる杉の根は、土を
穿ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、
跳ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする
岩の
梯子に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の
階を、
山霊の
賜と甲野さんは息を切らして
上って行く。
行く路の杉に
逼って、暗きより
洩るるがごとく
這い出ずる
日影蔓の、足に
纏わるほどに繁きを越せば、引かれたる
蔓の長きを伝わって、手も届かぬに、
朽ちかかる
歯朶の、風なき昼をふらふらと
揺く。
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で
天狗のような声を出す。
朽草の土となるまで積み
古るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、
蝙蝠傘を力に、
天狗の
座まで、登って行く。
「
善哉善哉、われ
汝を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を
放り出すと、その上へどさりと
尻持を突いた。
「また
反吐か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」
と例の桜の
杖で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ
隙間に、
的と
近江の
湖が光った。
「なるほど」と甲野さんは
眸を
凝らす。
鏡を延べたとばかりでは
飽き足らぬ。
琵琶の銘ある鏡の明かなるを
忌んで、叡山の天狗共が、
宵に
偸んだ
神酒の
酔に乗じて、曇れる
気息を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる
陽炎を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ
一刷に
抹り付けた、
瀲たる春色が、十里のほかに
糢糊と
棚引いている。
「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても
嬉しがらない男だね」
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、
日々人間と
御無沙汰になって……」
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を
背にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって
懐手をしていちゃ、駄目だよ」
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に
将門が
気を吐いたのはどこいらだろう」
「何でも向う側だ。京都を
瞰下したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」
「将門か。うん、気
を吐くより、
反吐でも吐く方が哲学者らしいね」
「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで
達磨だね」
「あの
煙るような島は何だろう」
「あの島か、いやに
縹緲としているね。おおかた
竹生島だろう」
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、
質さえたしかなら構わない主義だ」
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが
真だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の
浮気はなかなかやまないものだ」
「やまなくって好いから、突き当るのは
真っ
平御免だ」
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「
小刀細工の
好な人間がさ」
山を下りて
近江の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに
眺めているのが甲野さんの世界である。
二
紅を
弥生に包む昼
酣なるに、春を
抽んずる
紫の濃き一点を、
天地の眠れるなかに、
鮮やかに
滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも
艶に
眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める
鬢の上には、
玉虫貝を
冴々と
菫に刻んで、細き
金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き
眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。
半滴のひろがりに、一瞬の短かきを
偸んで、疾風の
威を
作すは、春にいて春を制する深き
眼である。この
瞳を
遡って、魔力の
境を
窮むるとき、
桃源に骨を白うして、再び
塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。
糢糊たる夢の大いなるうちに、
燦たる一点の
妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、
眉近く
逼るのである。女は紫色の着物を着ている。
静かなる昼を、静かに
栞を
抽いて、
箔に重き一巻を、女は膝の上に読む。
「墓の前に跪ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃い、この手にて香を焚くべき折々の、長しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶も我らを割き難きに、死こそ無惨なれ。羅馬の君は埃及に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂きわれに拒める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱に、市に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫に隠したまえ。」
女は顔を上げた。
蒼白き
頬の
締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、
一重の底に、余れる何物かを
蔵せるがごとく、蔵せるものを
見極わめんとあせる男はことごとく
虜となる。男は
眩げに
半ば口元を動かした。口の
居住の
崩るる時、この人の意志はすでに相手の
餌食とならねばならぬ。
下唇のわざとらしく色めいて、しかも
判然と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。
女はただ
隼の空を
搏つがごとくちらと
眸を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を
頭に飛ばして、泡吹く
蟹と、
烏鷺を争うは策のもっとも
拙なきものである。
風励鼓行して、やむなく
城下の
誓をなさしむるは策のもっとも
凡なるものである。
蜜を含んで針を吹き、酒を
強いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。
拈華の
一拶は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ
躊躇する事
刹那なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに
迷と書き、
惑と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う
間に引き上げる。
下界万丈の
鬼火に、
腥さき
青燐を筆の穂に吹いて、
会釈もなく
描き
出せる文字は、
白髪を
たわしにして洗っても
容易くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す
訳には行くまい。
「
小野さん」と女が呼びかけた。
「え?」とすぐ応じた男は、
崩れた口元を立て直す
暇もない。唇に
笑を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、
手持無沙汰に草書に
崩したまでであって、崩したものの尽きんとする
間際に、崩すべき第二の波の来ぬのを
煩っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く
咽喉を
滑り出たのである。女は
固より
曲者である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。
「何ですか」と男は二の句を
継いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも
映らぬ男の眼には、二の句は
固より愚かである。
女はまだ
何にも言わぬ。
床に
懸けた
容斎の、小松に
交る
稚子髷の、
太刀持こそ、
昔しから
長閑である。
狩衣に、
鹿毛なる
駒の
主人は、事なきに
慣れし
殿上人の常か、動く
景色も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが
外れれば、また継がねばならぬ。男は
気息を
凝らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ
細面に予期の
情を
漲らして、重きに過ぐる唇の、
奇か
偶かを疑がいつつも、
手答のあれかしと念ずる様子である。
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って
彎ける弓の、危うくも
吾が頭の上に、
瓢箪羽を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き
反えて、女は始めより、わが前に
坐われる人の存在を、
膝に
開ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、
箔美しと見つけた時、今
携えたる男の手から
ぎ取るようにして、読み始めたのである。
男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は
羅馬へ行くつもりなんでしょうか」
女は
腑に落ちぬ不快の
面持で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく
納得する。小野さんは暗い
隧道を
辛うじて抜け出した。
「
沙翁の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って
馳け出そうとする。魚は
淵に
躍る、
鳶は空に舞う。小野さんは詩の
郷に住む人である。
稜錐塔の空を
燬く所、
獅身女の砂を抱く所、
長河の
鰐魚を蔵する所、二千年の昔
妖姫クレオパトラの
安図尼と相擁して、
駝鳥の
に軽く
玉肌を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。
「沙翁の
描いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、
紫色のクレオパトラが眼の前に
鮮やかに映って来ます。
剥げかかった
錦絵のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き
袖を、さっと
捌いて、小野さんの鼻の先に
翻えす。小野さんの
眉間の奥で、急にクレオパトラの
臭がぷんとした。
「え?」と小野さんは
俄然として我に帰る。空を
掠める
子規の、
駟も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける
異しき色は、
疾く収まって、美くしい手は
膝頭に乗っている。
脈打つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、
恋々と遠のく
後を追うて、小野さんの心は
杳窕の境に
誘われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、
嘆息の恋じゃありません。
暴風雨の恋、
暦にも
録っていない
大暴雨の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を
斬ると紫色の血が出るというのですか」
「恋が
怒ると九寸五分が紫色に
閃ると云うのです」
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「
沙翁が
描いた所を
私が評したのです。――
安図尼が
羅馬でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の
報道を持って来た時に――クレオパトラの……」
「紫が
嫉妬で濃く染まったんでしょう」
「紫が
埃及の日で
焦げると、冷たい短刀が光ります」
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う
間もなく長い
袖が再び
閃いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を
眺めている。
「そこでクレオパトラがどうしました」と
抑えた女は再び
手綱を
緩める。小野さんは
馳け出さなければならぬ。
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、
詰り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように
背が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を
追窮します。……」
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ
御婆さんね」
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき
靨のなかに
捲き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば
偽りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。
皓い歯に交る一筋の金の
耀いてまた消えんとする
間際まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を
疾うから知っている。
美しき女の
二十を越えて
夫なく、
空しく一二三を数えて、二十四の
今日まで
嫁がぬは不思議である。
春院いたずらに
更けて、
花影欄にたけなわなるを、
遅日早く尽きんとする
風情と見て、
琴を
抱いて
恨み顔なるは、嫁ぎ
後れたる世の常の女の
習なるに、
麈尾に払う折々の
空音に、
琵琶らしき響を
琴柱に聴いて、本来ならぬ
音色を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。
仔細は
固より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に
覗き込んで、いらざる
臆測に、うやむやなる恋の
八卦をひそかに
占なうばかりである。
「年を取ると
嫉妬が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。
小野さんはまた
面喰う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる
訳がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に
堪能なる文学者である。
「そうですね。やっぱり人に
因るでしょう」
角を立てない代りに
挨拶は濁っている。それで済ます女ではない。
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに
嫉妬なんて、そんなものは、今だって……」
「有りますよ」
女の声は静かなる
春風をひやりと
斬った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を
外して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い
崖の上から、こちらを
見下している。自分をこんな所に
蹴落したのは誰だと考える暇もない。
「
清姫が
蛇になったのは
何歳でしょう」
「
左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」
「
安珍は」
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは
御何歳でしたかね」
「
私ですか――私はと……」
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と
御同い
年でした」
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど
老けて見えますよ」
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か
奢りましょうか」
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「
可愛想に」
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の
極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは
固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは
必ず女である。男は必ず負ける。
具象の
籠の中に
飼われて、個体の
粟を
喙んでは嬉しげに
羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く
音を競うものは必ず
斃れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き
損ねた。
「可愛らしいんですよ。ちょうど
安珍のようなの」
「安珍は
苛い」
許せと云わぬばかりに、今度は受け
留めた。
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が
御厭なの」
「
私は安珍のように逃げやしません」
これを逃げ損ねの
受太刀と云う。坊っちゃんは
機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
「ホホホ私は清姫のように
追っ
懸けますよ」
男は黙っている。
「
蛇になるには、少し年が
老け過ぎていますかしら」
時ならぬ春の
稲妻は、女を出でて男の胸をするりと
透した。色は紫である。
「
藤尾さん」
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は
緑り濃き植込に
隔てられて、往来に鳴る車の響さえ
幽かである。
寂寞たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。
茶縁の畳を境に、二尺を
隔てて互に顔を見合した時、社会は彼らの
傍を遠く立ち
退いた。救世軍はこの時太鼓を
敲いて市中を練り
歩るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の
気息を引き取ろうとしている。
露西亜では
虚無党が爆裂弾を投げている。
停車場では
掏摸が
捕まっている。火事がある。
赤子が生れかかっている。
練兵場で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の
兄さんと宗近君は
叡山に登っている。
花の
香さえ重きに過ぐる深き
巷に、呼び
交わしたる男と女の姿が、死の底に
滅り込む春の影の上に、明らかに
躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ
来る心臓の
扉は、恋と開き恋と閉じて、動かざる
男女を、躍然と
大空裏に
描き出している。二人の運命はこの危うき
刹那に
定まる。東か西か、
微塵だに
体を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、
羃然たる爆発物が
抛げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の
身体は
二塊の
である。
「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、
砂利を
軋る車輪がはたと行き留まった。
襖を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は
崩れた。
「母が帰って来たのです」と女は
坐ったまま、何気なく云う。
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を
判然と外に
露わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく
謎は、
法庭の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。
何人も
後指を
指す事は出来ぬ。出来れば向うが
悪るい。天下はあくまでも太平である。
「
御母さんは、どちらへか行らしったんですか」
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち
懸ける前に
居住をちょっと
繕ろい直す。
洋袴の
襞の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、
突っかい
棒に、尻を挙げるための、
膝頭に
揃えた両手は、雪のようなカフスに
甲まで
蔽われて、くすんだ
鼠縞の袖の下から、
七宝の
夫婦釦が、きらりと顔を出している。
「まあ
御緩くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える
気色もない。男はもとより尻を上げるのは
厭である。
「しかし」と云いながら、
隠袋の中を
捜ぐって、太い
巻煙草を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを
紛らす。いわんやこれは金の吸口の着いた
埃及産である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を
据え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも
詰める
便が出来んとも限らぬ。
薄い煙りの、黒い
口髭を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、
「まあ、御坐り遊ばせ」と
叮嚀な命令を下した。
男は無言のまま再び
膝を
崩す。御互に春の日は永い。
「近頃は女ばかりで
淋しくっていけません」
「甲野君はいつ
頃御帰りですか」
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「
御音信が有りますか」
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに
御出になればよかったのに」
「
私は……」と小野さんは後を
暈かしてしまう。
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い
御馴染じゃありませんか」
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的
真面目になって、
埃及煙草を肺の中まで吸い込んだ。
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「
御母さんでしょう」と小野さんが聞く。
「ええ」
「
私はもう帰ります」
「なぜです」
「でも何か御用が
御在りになるんでしょう」
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと
御免蒙ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。
平床に据えた
古薩摩の
香炉に、いつ
焼き残したる煙の
迹か、こぼれた灰の、灰のままに
崩れもせず、藤尾の部屋は
昨日も今日も静かである。敷き棄てた
八反の
座布団に、
主を待つ
間の
温気は、軽く払う春風に、ひっそり
閑と吹かれている。
小野さんは
黙然と
香炉を見て、また黙然と布団を見た。
崩し
格子の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に
挟まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは
頓と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、
絹障のしなやかに、
布団が
擦れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を
覗いて見た。
松葉形に
繋ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる
七子の
縁が
幽かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。
金は色の純にして濃きものである。
富貴を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を
冀うものは必ずこの色を
撰む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。
磁石の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき
護謨である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。
折柄向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、
曲がり
椽を伝わって近づいて来る。小野さんは
覗き込んだ眼を急に
外らして、素知らぬ顔で、
容斎の
軸を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。
黒縮緬の三つ紋を
撫で
肩に着こなして、くすんだ
半襟に、
髷ばかりを古風につやつやと光らしている。
「おやいらっしゃい」と
御母さんは軽く
会釈して、椽に近く座を占める。
鶯も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。
「藤尾が
始終御厄介になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ
御楽に――いつも
御挨拶を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に
赤児で、困り切ります、駄々ばかり
捏ねまして――でも英語だけは
御蔭さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は
行かんものと見えまして――」
御母さんの弁舌は
滾々としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を
挟む
遑まなく、
口車に乗って
馳けて行く。行く先は
固より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて
続を読んでいる。
「花を墓に、墓に口を
接吻して、
憂きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、
浴湯をこそと召す。
浴みしたる
後は
夕餉をこそと召す。この時
賤しき
厠卒ありて小さき
籃に
無花果を盛りて参らす。女王の
該撒に送れる
文に云う。願わくは
安図尼と同じ墓にわれを
埋めたまえと。
無花果の繁れる青き葉陰にはナイルの
泥の
の
舌を冷やしたる
毒蛇を、そっと忍ばせたり。
該撒の使は走る。
闥を排して
眼を射れば――
黄金の寝台に、位高き
装を今日と
凝らして、女王の
屍は是非なく
横わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の
頭のあたりに、月黒き
夜の露をあつめて、
千顆の
珠を鋳たる
冠の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。
埃及の
御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を
瞑る」
埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、
焚き
罩むる
錬香の尽きなんとして
幽かなる尾を
虚冥に
曳くごとく、
全き
頁が淡く
霞んで見える。
「藤尾」と知らぬ
御母さんは呼ぶ。
男はやっと
寛容だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は
俯向ている。
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ
廂髪の、白い額に
接く下から、骨張らぬ細い鼻を
承けて、
紅を
寸に織る唇が――唇をそと
滑って、
頬の末としっくり落ち合う
が――
を
棄ててなよやかに
退いて行く
咽喉が――しだいと現実世界に
競り出して来る。
「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変
奇麗な――
汚さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を
開いた。
「いえ、あなた、どうもわがまま
者の寄り合いだもんでござんすから、
始終、小供のように
喧嘩ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある
恐喝手段は
長者の好んで年少に対して用いる遊戯である。
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。
玩具の九寸五分を突き付けたような気合である。
「兄の本を庭へ
抛げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの
眉間へ向けて
抛げつけた。御母さんは
苦笑いをする。小野さんは口を
開く。
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と
御母さんは遠廻しに
棄鉢になった娘の御機嫌をとる。
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、
始終身体が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして
判然したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を
捏ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して
貰いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の
呑気屋で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、
御前さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。
「ここです」と藤尾は、軽く
諸膝を
斜めに立てて、青畳の上に、
八反の
座布団をさらりと
滑べらせる。
富貴の色は
蜷局を三重に巻いた鎖の中に、
堆く
七子の
蓋を盛り上げている。
右手を
伸べて、輝くものを
戛然と鳴らすよと思う
間に、
掌より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに
喰い
留められると、余る力を横に抜いて、
端につけた
柘榴石の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は
紅の
珠に女の白き
腕を打つ。第二の波は
観世に動いて、軽く
袖口にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は
衝と立ち上がった。
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、
疾く動く
景色を、
茫然と
眺めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は
「
御母さん」と
後を
顧みながら、
「こうすると引き立ちますよ」と云って
故の席に返る。小野さんの
胴衣の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、
釦の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に
燦爛と
耀やいている。
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど
善く似合いますね」と
御母さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは
煙に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、
止しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を
外してしまった。
三
柳れて
条々の煙を
欄に吹き込むほどの雨の日である。
衣桁に
懸けた
紺の背広の暗く下がるしたに、黒い
靴足袋が
三分一裏返しに丸く
蹲踞っている。
違棚の
狭い上に、偉大な
頭陀袋を
据えて、
締括りのない
紐をだらだらと
嬾も垂らした
傍らに、
錬歯粉と
白楊子が御早うと
挨拶している。立て切った
障子の
硝子を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と
宗近君は
貸浴衣の上に
銘仙の丹前を重ねて、
床柱の松の木を
背負て、
傲然と
箕坐をかいたまま、外を
覗きながら、
甲野さんに話しかけた。
甲野さんは
駱駝の
膝掛を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の
向を換えると、
櫛を入れたての
濡れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた
靴足袋といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ
寝に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。
御母さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの
額の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。
※雨※風[#「にんべん+孱」、51-3][#「にんべん+愁」、51-3]か。見た事がないな。何でも
人扁だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの
襖が面白いよ。一面に
金紙を張り付けたところは豪勢だが、ところどころに
皺が寄ってるには驚ろいたね。まるで
緞帳芝居の
道具立見たようだ。そこへ持って来て、
筍を三本、景気に
描いたのは、どう云う
了見だろう。なあ甲野さん、これは
謎だぜ」
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが
描いてあるんだから謎だろう」
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。
気狂の発明した
詰将棋の手を、青筋を立てて研究しているようなものだ」
「じゃこの筍も気違の
画工が描いたんだろう」
「ハハハハ。そのくらい
事理が分ったら
煩悶もなかろう」
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、
昔話しにゴージアン・ノットと云うのがあるじゃないか。知ってるかい」
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない
執念深い人間だから、……」
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を
奉納したところが……」
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の
轅と横木を
蔓で
結いた結び目を誰がどうしても
解く事が出来ない」
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その
結目をアレキサンダーが面倒臭いって、刀を抜いて切っちまったんだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の
帝たらんと云う
神託を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う
了見がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど
卑怯なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに
豪いと思ってるのか」
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は
箕坐のまま旅行案内をひろげる。雨は
斜めに降る。
古い京をいやが上に
寂びよと降る
糠雨が、赤い腹を空に見せて
衝いと行く
乙鳥の
背に
応えるほど繁くなったとき、
下京も
上京もしめやかに
濡れて、
三十六峰の
翠りの底に、音は
友禅の
紅を溶いて、菜の花に
注ぐ流のみである。「
御前川上、わしゃ川下で……」と
芹を洗う
門口に、
眉をかくす
手拭の重きを脱げば、「
大文字」が見える。「
松虫」も「
鈴虫」も
幾代の春を
苔蒸して、
鶯の鳴くべき
藪に、墓ばかりは残っている。鬼の出る
羅生門に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り
毀たれた。
綱が
ぎとった腕の
行末は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの
春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、
祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
甲野さんは寝ながら日記を
記けだした。
横綴の茶の
表布の少しは汗に
汚ごれた
角を、折るようにあけて、二三枚めくると、一
頁の
三が
一ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を
執って景気よく、
「
一奩楼角雨、
閑殺古今人」
と書いてしばらく考えている。
転結を添えて絶句にする気と見える。
旅行案内を
放り出して宗近君はずしんと畳を
威嚇して
椽側へ出る。椽側には
御誂向に一脚の
籐の
椅子が、人待ち顔に、しめっぽく
据えてある。
連の
疎なる花の間から
隣り
家の座敷が見える。
障子は立て切ってある。
中では琴の
音がする。
「
忽※[#「耳+吾」、56-1]弾琴響、
垂楊惹恨新」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は
謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、
白頭に
し、
中夜に
煩悶するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」
宗近君は
籐の
椅子に
横平な腰を据えてさっきから隣りの
琴を聴いている。
御室の
御所の
春寒に、
銘をたまわる
琵琶の風流は知るはずがない。
十三絃を南部の
菖蒲形に張って、
象牙に置いた
蒔絵の
舌を
気高しと思う
数奇も
有たぬ。宗近君はただ漫然と
聴いているばかりである。
滴々と垣を
蔽う
連の
黄な向うは
業平竹の
一叢に、
苔の多い御影の
突く
這いを添えて、三坪に足らぬ小庭には、一面に
叡山苔を
這わしている。琴の
音はこの庭から出る。
雨は一つである。冬は
合羽が
凍る。秋は灯心が細る。夏は
褌を洗う。春は――
平打の
銀簪を畳の上に落したまま、
貝合せの貝の裏が朱と金と
藍に光る
傍に、ころりんと
掻き鳴らし、またころりんと掻き乱す。宗近君の聴いてるのはまさにこのころりんである。
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に
聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奥に
捕えたる時、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは
本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」
琴の手は次第に繁くなる。
雨滴の
絶間を
縫うて、白い爪が幾度か
駒の上を飛ぶと見えて、
濃かなる調べは、太き糸の
音と細き音を
綯り合せて、代る代るに乱れ打つように思われる。甲野さんが「
無絃の琴を
聴いて始めて
序破急の意義を悟る」と書き終った時、
椅子に
靠れて
隣家ばかりを
瞰下していた宗近君は
「おい、甲野さん、
理窟ばかり云わずと、ちとあの琴でも聴くがいい。なかなか
旨いぜ」
と
椽側から部屋の中へ声を掛けた。
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと
椽まで出張を命ずるから出て来なさい」
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる
景色がない。
「おい、どうも東山が
奇麗に見えるぜ」
「そうか」
「おや、
鴨川を
渉る
奴がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、
布団着て寝たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。ちょっとここまで来て教えてくれんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の
水嵩が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても
差し
支えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の
金襖の
筍を横に
眺め始めた。
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう
我を折って部屋の中へ
這入って来る。
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「
幾何だと思う」
「
幾歳だかね」
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと
判然云うがいい」
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、
島田だよ」
「座敷でも
開いてるのかい」
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り
好加減な雅号なんだろう」
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら
聴きたくなった」
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの
筍を研究している方がよっぽど面白い。この筍を寝ていて横に見ると、
背が低く見えるがどう云うものだろう」
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の
唐紙に三本
描いたのは、どう云う
因縁だろう」
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の
真青なのはなぜだろう」
「食うと
中毒ると云う
謎なんだろう」
「やっぱり謎か。君だって謎を
釈くじゃないか」
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、
後から頭を下げさせる事にしよう。――あのね、あの琴の主はね」
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。
昨日ね、僕が湯から上がって、
椽側で肌を抜いで涼んでいると――聴きたいだろう――僕が何気なく
鴨東の
景色を見廻わして、ああ好い心持ちだとふと眼を落して隣家を見下すと、あの娘が
障子を半分開けて、開けた障子に
靠たれかかって庭を見ていたのさ」
「
別嬪かね」
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが
糸公より好いようだ」
「そうかい」
「それっきりじゃ、
余まり
他愛が無さ過ぎる。そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかったぐらい義理にも云うがいい」
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから
椽側まで出て来いと云うのに」
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち
開くかも知れないさ」
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは
霞に酔ってぽうっとしているばかりで、霞を
披いて本体を見つけようとしないから
性根がないよ」
「霞の
酔っ
払か。哲学者は余計な事を考え込んで
苦い顔をするから、塩水の酔っ払だろう」
「君見たように
叡山へ登るのに、
若狭まで突き
貫ける男は
白雨の酔っ払だよ」
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。
光沢のある髪で
湿っぽく
圧し付けられていた空気が、弾力で
膨れ上がると、枕の位置が畳の上でちょっと廻った。同時に
駱駝の
膝掛が
擦り落ちながら、裏を返して
半分に折れる。下から、だらしなく腰に
捲き付けた
平絎の細帯があらわれる。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に
畏まった宗近君は、即座に品評を加えた。相手は
痩せた
体躯を持ち上げた
肱を二段に
伸して、手の平に胴を
支えたまま、自分で自分の腰のあたりを
睨め廻していたが
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく
畏まってるじゃないか」と
一重瞼の長く切れた間から、宗近君をじろりと見た。
「おれは、これで正気なんだからね」
「
居住だけは正気だ」
「精神も正気だからさ」
「
どてらを着て
跪坐てるのは、酔っ払っていながら、異状がないと得意になるようなものだ。なおおかしいよ。酔っ払いは
酔払らしくするがいい」
「そうか、それじゃ
御免蒙ろう」と宗近君はすぐさま
胡坐をかく。
「君は感心に
愚を主張しないからえらい。愚にして賢と心得ているほど
片腹痛い事はないものだ」
「
諫に従う事流るるがごとしとは僕の事を云ったものだよ」
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは
淋し気に笑った。
勢込んで
喋舌って来た宗近君は急に
真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の
肺腑に入る。面上の筋肉が
我勝ちに
躍るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに
稲妻を起すためでもない。
涙管の関が切れて
滂沱の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして
床を
斬るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
毛筋ほどな細い管を通して、
捕えがたい
情けの波が、心の底から
辛うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に
転がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、
捕まえた人が勝ちである。捕まえ
損なえば
生涯甲野さんを知る事は出来ぬ。
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その
速かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は
明かに
描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の
知己である。
斬った
張ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと
合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を
描き出すのは
野暮な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
春の旅は
長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は
駱駝の
膝掛の
馬簾をひねくり始めたが、やがて
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、
独語のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返した。
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、
阿爺が生きているとかえって面倒かも知れない」
「そうさなあ」と宗近君は
なあを引っ張った。
「つまり、
家を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を
襲いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一
叔母さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば
己にさえ
欺むかれる。まして己以外の人間の、利害の
衢に、損失の
塵除と
被る、
面の厚さは、容易には
度られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、または外側でのみ云う
了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか
潜んでいるような気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、
迂濶には天機を
洩らしがたい。宗近の
言は継母に対するわが心の底を見んための
鎌か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を
懸けるほどの男ならば、思う通りを引き出した
後で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は
真率なる彼の、裏表の
見界なく、母の
口占を
一図にそれと信じたる反響か。
平生のかれこれから
推して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき
淵の底に、
詮索の
錘を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、
見損なった母の意を
承けて、御互に面白からぬ結果を、必然の
期程以前に、家庭のなかに
打ち
開ける事がないとも限らん。いずれにしても入らぬ口は
発くまい。
二人はしばらく無言である。
隣家ではまだ
琴を
弾いている。
「あの琴は
生田流かな」と甲野さんは、つかぬ事を聞く。
「寒くなった、狐の
袖無でも着よう」と宗近君も、つかぬ事を云う。二人は離れ離れに口を発いている。
丹前の胸を開いて、
違棚の上から、例の異様な
胴衣を取り下ろして、
体を
斜めに腕を通した時、甲野さんは聞いた。
「その
袖無は手製か」
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。
旨いもんだ。
御糸さんは藤尾なんぞと違って実用的に出来ているからいい」
「いいか、ふん。
彼奴が嫁に行くと少々困るね」
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと
御叔父さんも困るね」
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから
御母さんの云う通りに君が
家を
襲いで……」
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は
厭なんだ」
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また
鱧を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に
愚な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の
嗅覚は非常に鋭敏だね。鱧の臭がするかい」
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると
阿爺も外国で死ななくっても済んだかも知れない。阿爺は嗅覚が鈍かったと見える」
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の
佐伯と云う人が持って来てくれるはずだ。――何にもないだろう――書物が少しあるかな」
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。
倫敦で買った自慢の時計か。あれは多分来るだろう。小供の時から藤尾の
玩具になった時計だ。あれを持つとなかなか離さなかったもんだ。あの
鏈に着いている
柘榴石が気に入ってね」
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの
片身に僕にくれ」
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の
眉の間を、長い事見ていた。御昼の
膳の上には宗近君の予言通り
鱧が出た。
四
甲野さんの日記の一筋に云う。
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「
生死因縁無了期、
色相世界現狂癡」
小野さんは
色相世界に住する男である。
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。
筒袖を着て学校へ通う時から友達に
苛められていた。行く所で犬に
吠えられた。父は死んだ。外で
辛い目に
遇った小野さんは帰る家が無くなった。やむなく人の世話になる。
水底の
藻は、暗い所に
漂うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に
揺こうが、
左りに
靡こうが
嬲るは波である。ただその時々に
逆らわなければ済む。
馴れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える
暇もない。なぜ波がつらく
己れにあたるかは無論問題には
上らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に
生えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。――小野さんは水底の藻であった。
京都では
孤堂先生の世話になった。先生から
絣の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。
祇園の桜をぐるぐる
周る事を知った。
知恩院の
勅額を見上げて高いものだと悟った。御飯も
一人前は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
東京は目の
眩む所である。
元禄の昔に百年の
寿を保ったものは、明治の
代に三日住んだものよりも短命である。
余所では人が
蹠であるいている。東京では
爪先であるく。
逆立をする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
きりきりと回った
後で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を
擦すっても変っている。変だと考えるのは
悪るく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を
賜わった。浮かび出した
藻は水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。
世界は色の世界である。ただこの色を
味えば世界を味わったものである。世界の色は自己の成功につれて
鮮やかに眼に
映る。鮮やかなる事錦を
欺くに至って生きて
甲斐ある命は
貴とい。小野さんの
手巾には時々ヘリオトロープの
香がする。
世界は色の世界である、形は色の
残骸である。残骸を
論って中味の
旨きを解せぬものは、方円の
器に
拘わって、盛り上る酒の
泡をどう片づけてしかるべきかを知らぬ男である。いかに
見極めても皿は食われぬ。
唇を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の
巵を
抱いて、路頭に
跼蹐している。
世界は色の世界である。いたずらに
空華と云い
鏡花と云う。
真如の実相とは、世に
容れられぬ
畸形の徒が、容れられぬ
恨を、
黒※郷裏[#「甘+舌」、72-14]に晴らすための
妄想である。盲人は
鼎を
撫でる。色が見えねばこそ形が
究めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の
所作である。小野さんの机の上には花が
活けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の
眼鏡が掛かっている。
絢爛の域を
超えて平淡に
入るは自然の順序である。我らは
昔し赤ん坊と呼ばれて赤い
べべを着せられた。
大抵のものは
絵画のなかに生い立って、
四条派の淡彩から、
雲谷流の
墨画に老いて、ついに
棺桶のはかなきに親しむ。
顧みると母がある、姉がある、菓子がある、
鯉の
幟がある。顧みれば顧みるほど
華麗である。小野さんは
趣が違う。自然の
径路を
逆しまにして、暗い土から、根を振り切って、日の
透る波の、明るい
渚へ
漂うて来た。――
坑の底で生れて一段ごとに美しい浮世へ近寄るためには二十七年かかった。二十七年の歴史を過去の
節穴から
覗いて見ると、遠くなればなるほど暗い。ただその途中に一点の
紅がほのかに
揺いている。東京へ
来たてにはこの紅が恋しくて、寒い記憶を繰り返すのも
厭わず、たびたび過去の節穴を覗いては、長き
夜を、永き日を、あるは
時雨るるをゆかしく暮らした。今は――紅もだいぶ
遠退いた。その上、色もよほど
褪めた。小野さんは節穴を覗く事を
怠たるようになった。
過去の節穴を
塞ぎかけたものは現在に満足する。現在が不景気だと未来を製造する。小野さんの現在は
薔薇である。薔薇の
蕾である。小野さんは未来を製造する必要はない。
蕾んだ薔薇を一面に開かせればそれが
自からなる彼の未来である。未来の節穴を得意の
管から
眺めると、薔薇はもう開いている。手を出せば
捕まえられそうである。早く捕まえろと誰かが耳の
傍で云う。小野さんは博士論文を書こうと決心した。
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、
必ず博士論文でなくてはならぬ。博士は学者のうちで色のもっとも見事なるものである。未来の管を覗くたびに博士の二字が
金色に燃えている。博士の傍には金時計が天から
懸っている。時計の下には赤い
柘榴石が心臓の
焔となって揺れている。その
側に黒い眼の藤尾さんが
繊い腕を出して
手招ぎをしている。すべてが美くしい
画である。詩人の理想はこの画の中の人物となるにある。
昔しタンタラスと云う人があった。わるい事をした
罰で、
苛い目に
逢うたと書いてある。
身体は肩深く水に
浸っている。頭の上には
旨そうな
菓物が
累々と枝をたわわに
結実っている。タンタラスは
咽喉が
渇く。水を飲もうとすると水が
退いて行く。タンタラスは腹が減る。菓物を食おうとすると菓物が逃げて行く。タンタラスの口が一尺動くと向うでも一尺動く。二尺
前むと向うでも二尺前む。三尺四尺は愚か、千里を行き尽しても、タンタラスは腹が減り通しで、咽喉が渇き続けである。おおかた今でも水と菓物を追っ
懸けて歩いてるだろう。――未来の管を覗くたびに、小野さんは、何だかタンタラスの子分のような気がする。それのみではない。時によると藤尾さんがつんと澄ましている事がある。長い
眉を押しつけたように短かくして、
屹と
睨めている事がある。柘榴石がぱっと燃えて、
のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって
剥げながら暗くなる事がある。時計が
遥かな天から
隕石のように落ちて来て、割れる事がある。その時はぴしりと云う音がする。小野さんは詩人であるからいろいろな未来を
描き出す。
机の前に
頬杖を突いて、
色硝子の
一輪挿をぱっと
蔽う
椿の花の奥に、小野さんは、例によって自分の未来を覗いている。幾通りもある未来のなかで今日は一層出来がわるい。
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと
平手でたたいて、御気の毒様もう約束済ですと云う。じゃ時計は入りません、しかしあなたは……と聞くと、私? 私は無論時計にくっ付いているんですと
向をむいて、すたすた歩き出す」
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り
残刻なのに驚いて、また最初から出直そうとして、少し痛くなり掛けた
を持ち上げると、
障子が、すうと
開いて、御手紙ですと下女が封書を置いて行く。
「小野清三様」と
子昂流にかいた
名宛を見た時、小野さんは、急に
両肱に力を入れて、机に持たした
体を
跳ねるように
後へ引いた。未来を覗く
椿の
管が、同時に揺れて、
唐紅の
一片がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちて来る。
完き未来は、はや
崩れかけた。
小野さんは机に添えて
左りの手を
伸したまま、顔を
斜めに、受け取った封書を
掌の上に遠くから
眺めていたが、容易に裏を返さない。返さんでもおおかたの
見当はついている。ついていればこそ返しにくい。返した暁に推察の通りであったなら、それこそ取り返しがつかぬ。かつて
亀に聞いた事がある。首を出すと打たれる。どうせ打たれるとは思いながら、出来るならばと
甲羅の中に立て
籠る。打たれる運命を眼前に控えた
間際でも、一刻の首は一刻だけ縮めていたい。思うに小野さんは事実の判決を
一寸に
逃れる学士の亀であろう。亀は早晩首を出す。小野さんも今に封筒の裏を返すに違ない。
良しばらく眺めていると今度は掌がむず
痒ゆくなる。一刻の安きを
貪った
後は、安き
思を、なお安くするために、裏返して得心したくなる。小野さんは思い切って、封筒を机の上に
逆に置いた。裏から
井上孤堂の四字が明かにあらわれる。白い状袋に墨を惜しまず肉太に記した
草字は、小野さんの眼に、針の先を並べて植えつけたように紙を離れて飛びついて来た。
小野さんは
障らぬ神に
祟なしと云う風で、両手を机から離す。ただ顔だけが机の上の手紙に向いている。しかし机と
膝とは一尺の谷で縁が切れている。机から引き取った手は、ぐにゃりとして何だか肩から抜けて行きそうだ。
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を
抛げて見ないうちはどうも柔術家たる
所以を自分に証明する道がない。弱い議論と弱い柔術は似たものである。小野さんは京都以来の友人がちょっと遊びに来てくれればいいと思った。
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は
呑気で
羨しいと思う。――椿の
花片がまた一つ落ちた。
一輪挿を持ったまま障子を
開けて
椽側へ出る。花は庭へ
棄てた。水もついでにあけた。
花活は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。
檜がある。
塀がある。
向に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が
干してある。
蛇の目の黒い
縁に
落花が
二片貼ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き
擦ってまた部屋のなかへ
這入って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の
節穴がすうと
開いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を
屈めて手を伸ばすや否や封を切った。
「拝啓柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候。小生も不相変頑強、小夜も息災に候えば、乍憚御休神可被下候。さて旧臘中一寸申上候東京表へ転住の義、其後色々の事情にて捗どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度候。二十年前に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留の外は、全く故郷の消息に疎く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古るしたる住宅は隣家蔦屋にて譲り受け度旨申込有之、其他にも相談の口はかかり候えども、此方に取り極め申候。荷物其他嵩張り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故きを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下候。
「御承知の通小夜は五年前当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速かなる事を希望致し居候。同人行末の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述。追て其地にて御面会の上篤と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致候。まずは右当用迄匆々不一」
読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた
端が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き
留った時、やむを得ず、
睛を転じてロゼッチの詩集を
眺めた。詩集の表紙の上に散った
二片の
紅も眺めた。紅に誘われて、右の
角に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。
一昨日挿した
椿は影も形もない。うつくしい未来を覗く
管が無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち
上る。一種古ぼけた
黴臭いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして
躊躇する毛筋の末を引いて、細い
縁に、絶えるほどにつながるる今と昔を、
面のあたりに結び合わす
香である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで
逆しまに尋ぬれば、
溯るほどに
暗澹となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ
枝の末に、
錐の力の
尖れるを
幸と、記憶の命を突き
透すは要なしと云わんよりむしろ
無惨である。ジェーナスの神は二つの顔に、
後ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。
背を過去に向けた上は、眼に映るは
煕々たる前程のみである。
後を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた
昨日今日、寒い所から、寒いものが追っ
懸けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く
鮮やかなるうちに、
己れを
捲き込んで、一歩でも過去を
遠退けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに
鏤られて、動くかとは
掛念しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち
退いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を
撫でていた。ところが、昔しながらとたかを
括って、過去の
管を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。
逼って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り
超えて、
暗夜を照らす
提灯の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。
極まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて
半分と立たぬうちに、
障子から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て
妄りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに
愛嬌があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると
半文の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。
今日まで下女の人望を
繋いだのも全くこの自覚に
基づく。小野さんは下女の人望をさえ
妄りに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事
能わずと
昔しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が
退いて不安が
這入る。下女は
悪るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が
附焼刃で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。
家主が這入るについて、愛嬌が
示談の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「
逢おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、
好い。
好し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり
後ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと
体を
交わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ
避ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を
換えて反対へ出る。反対と反対が
鉢合せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の
振子のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの
悪るい野郎だと
悪口が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が
這入ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で
圧し
潰すように握って、畳の上へ
抛り出すや否や
「ええ天気だな」と
胡坐をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。
昨日行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は
露西亜料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く
露西亜料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し
先刻だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって
緩っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら
緩くり話そうと思うんだね。そう向うだけで
一人ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分
昔堅気だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。
一徹なんだ」
「近頃は
家計の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に
何時かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「
旨い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
門口で分れた小野さんの足は甲野の邸に向った。
五
山門を入る事一歩にして、古き世の
緑りが、急に左右から肩を襲う。
自然石の
形状乱れたるを幅一間に行儀よく並べて、
錯落と平らかに敷き詰めたる
径に落つる足音は、
甲野さんと
宗近君の足音だけである。
一条の径の細く
直なるを行き尽さざる
此方から、石に眼を添えて
遥かなる向うを
極むる行き当りに、
仰げば
伽藍がある。
木賊葺の厚板が左右から内輪にうねって、
大なる両の翼を、
険しき一本の
背筋にあつめたる上に、今一つ小さき
家根が小さき翼を
伸して乗っかっている。
風抜きか明り取りかと思われる。甲野さんも、宗近君もこの
精舎を、もっとも趣きある横側の角度から同時に見上げた。
「明かだ」と甲野さんは
杖を
停めた。
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり
恰好が
旨くそう云う風に出来てるんだろう。アリストートルのいわゆる
理形に
適ってるのかも知れない」
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「
舟板塀趣味や
御神灯趣味とは違うさ。
夢窓国師が建てたんだもの」
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を
逍遥する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
「夢窓国師も
家根になって明治まで生きていれば結構だ。
安直な銅像よりよっぽどいいね」
「そうさ、
一目瞭然だ」
「何が」
「何がって、この
境内の
景色がさ。ちっとも曲っていない。どこまでも明らかだ」
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ
這入ると好い気持ちになるんだろう」
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは
蓮池に渡した
石橋の
欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな
三階松が三寸の厚さを
透かして水に臨んでいる。石には
苔の
斑が薄青く吹き出して、灰を交えた
紫の質に深く食い込む下に、
枯蓮の
黄な
軸がすいすいと、去年の
霜を
弥生の中に突き出している。
宗近君は
燐寸を出して、
煙草を出して、しゅっと云わせた燃え残りを池の水に棄てる。
「夢窓国師はそんな
悪戯はしなかった」と甲野さんは、
の先に、両手で
杖の
頭を丁寧に抑えている。
「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の
真似をするが好い」
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と
北京へ駐在する事にするよ」
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の
阿爺ぐらいにはなれるだろうか」
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は
我儘過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」
今までは真面目の上に
冗談の雲がかかっていた。冗談の雲はこの時ようやく晴れて、下から真面目が浮き上がって来る。
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し
後ろへ開いた。
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま
風邪が
癒れば長命だと思ってる」
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と
露西亜の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
「無論さ」
「
亜米利加を見ろ、
印度を見ろ、
亜弗利加を見ろ」
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ
間に殺されているんだ」
すべてを
爪弾きした甲野さんは杖の先で、とんと
石橋を
敲いて、ぞっとしたように肩を縮める。宗近君はぬっと立ち上がる。
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。
峩山と云う坊主は一椀の
托鉢だけであの本堂を再建したと云うじゃないか。しかも死んだのは五十になるか、ならんうちだ。やろうと思わなければ、横に
寝た
箸を
竪にする事も出来ん」
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に
颯と
開いた中を、――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。小供が通る。
嵯峨の春を傾けて、京の人は
繽紛絡繹と
嵐山に行く。「あれだ」と甲野さんが云う。二人はまた色の世界に出た。
天竜寺の門前を左へ折れれば
釈迦堂で右へ曲れば
渡月橋である。京は所の名さえ美しい。二人は名物と銘打った何やらかやらをやたらに並べ立てた店を両側に見て、
停車場の方へ
旅衣七日余りの足を旅心地に移す。出逢うは皆京の人である。
二条から
半時ごとに花時を
空にするなと仕立てる汽車が、今着いたばかりの好男子好女子をことごとく嵐山の花に向って吐き送る。
「美しいな」と宗近君はもう天下の
大勢を忘れている。京ほどに女の
綺羅を飾る所はない。天下の大勢も、
京女の色には
叶わぬ。
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「
悪るくないね。何となく景気がいい」
「いいえ。あれを見るとほとんど
異性の感がない。女もあれほどに飾ると、飾りまけがして人間の分子が少なくなる」
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに
厭味がない」
「どうも
淡粧して、活動する奴が一番人間の分子が多くって危険だ」
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。
至極御同感だ。御互に無事な所へ遊びに来てまあ
善かったよ」
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから
厭になっちまう」
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた
了見を洗った時に、第一義が躍然とあらわれる。人間はそれほど軽薄なものなんだよ」
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に
陳べてある、
抹茶茶碗を見始めた。土を
捏ねて手造りにしたものか、棚三段を尽くして、あるものはことごとく
とぼけている。
「そんな
とぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて
眺めている
袖を、宗近君は断わりもなく、力任せにぐいと引く。茶碗は土間の上で散々に壊れた。
「こうだ」と甲野さんが壊れた
片を土の上に眺めている。
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を
跨ぐ。「何だ」と天竜寺の方を振り返る向うは例の京人形の後姿がぞろぞろ行くばかりである。
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの
琴の主さ。君が大いに見たがった娘さ。せっかく見せてやろうと思ったのに、下らない茶碗なんかいじくっているもんだから」
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は
無残な事をした。罪は君にある」
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ
追つかない。壊してしまわなけりゃ直らない
厄介物だ。全体茶人の持ってる道具ほど気に食わないものはない。みんな、ひねくれている。天下の茶器をあつめてことごとく
敲き壊してやりたい気がする。何ならついでだからもう一つ二つ茶碗を壊して行こうじゃないか」
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、
停車場へ来る。
浮かれ人を花に送る京の汽車は
嵯峨より
二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて
丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、
亀岡に降りた。
保津川の
急湍はこの駅より
下る
掟である。下るべき水は眼の前にまだ
緩く流れて
碧油の
趣をなす。岸は開いて、里の子の
摘む
土筆も生える。
舟子は舟を
渚に寄せて客を待つ。
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、
舷は尺と水を離れぬ。赤い
毛布に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の
数は四人である。真っ先なるは、二間の
竹竿、
続づく二人は右側に
櫂、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと
櫂が鳴る。
粗削りに
平げたる
樫の
頸筋を、太い
藤蔓に
捲いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の
節の
隆きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと
掻く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に
頸根を抑えられた櫂が、
掻くごとに
撓りでもする事か、
強き
項を
真直に立てたまま、藤蔓と
擦れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、
停まる暇なきに、前へ前へと送る。
重なる水の
蹙って行く、
頭の上には、
山城を
屏風と囲う春の山が
聳えている。
逼りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも
山峡に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の
体を
透かして岩と岩の
逼る間を半丁の
向に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、
舷から首を出した時、船ははや瀬の中に
滑り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を
緩める。
櫂は流れて舷に着く。
舳に立つは
竿を
横えたままである。
傾むいて矢のごとく下る船は、どどどと
刻み足に、船底に据えた尻に響く。
壊われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が
指す
後ろを見ると、白い
泡が一町ばかり、
逆か落しに
噛み合って、谷を
洩る
微かな日影を
万顆の
珠と
我勝に奪い合っている。
「
壮んなものだ」と宗近君は大いに
御意に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は
至極冷淡である。松を抱く
巌の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、
棹を
操り去る。通る瀬はさまざまに
廻る。廻るごとに新たなる山は当面に
躍り出す。石山、松山、
雑木山と数うる
遑を
行客に許さざる
疾き流れは、船を
駆ってまた
奔湍に躍り込む。
大きな丸い岩である。
苔を畳む
煩わしさを避けて、
紫の
裸身に、
撃ちつけて散る
水沫を、春寒く腰から浴びて、緑り
崩るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は
矢も
楯も物かは。
一図にこの大岩を目懸けて突きかかる。
渦捲いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。
削られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の
行末である。岩に突き当って砕けるか、
捲き込まれて、見えぬ
彼方にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を
呑む岩の太腹に
潜り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が
揚がると共に舟はぐうと廻った。この
獣奴と突き離す竿の先から、岩の
裾を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘を落ち尽すと
向から
空舟が
上ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の
拳を収めて、肩から斜めに
目暗縞を
掠めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を
牽いて来る。水行くほかに
尺寸の余地だに
見出しがたき岸辺を、石に飛び、岩に
這うて、
穿く
草鞋の
滅り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は
塞かれて
注ぐ渦の中に指先を
浸すばかりである。うんと踏ん張る
幾世の金剛力に、岩は
自然と
擦り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、
牽綱をわが勢に
逆わぬほどに、
疾く
滑らすための
策と云う。
「少しは
穏かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の
遥かの上に、
鉈の音が
丁々とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は
咽喉仏を突き出して峰を見上げた。
「
慣れると何でもするもんだね」と相手も手を
翳して見る。
「あれで一日働いて
若干になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて
見ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに
駛っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。
願くは船頭の
棹を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に
成仏している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち
遣った。
「そう困った日にゃ
方が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「
肝胆相照らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに
違ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは
黙然として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと
昔し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は
保津川と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を
敲く。
乱れ起る岩石を左右に
る流は、
抱くがごとくそと割れて、半ば
碧りを透明に含む
光琳波が、
早蕨に似たる曲線を
描いて
巌角をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると
嵐山どす」と長い
棹を
舷のうちへ
挿し込んだ船頭が云う。鳴る
櫂に送られて、深い
淵を
滑るように抜け出すと、左右の岩が
自ら開いて、舟は
大悲閣の
下に着いた。
二人は松と桜と京人形の
群がるなかに
這い上がる。幕と
連なる
袖の下を
掻い
潜ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の
二抱を
楯に、
大堰の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の
袂の
葭簀茶屋に、高島田が休んでいる。昔しの
髷を今の世にしばし許せと
被る
瓜実顔は、花に臨んで風に
堪えず、
俯目に人を避けて、名物の団子を
眺めている。薄く染めた
綸子の
被布に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる
衣の色は見えぬ。ただ
襟元より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが
琴を
弾いた女だよ。あの黒い羽織は
阿爺に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪に
酔を飾る三五の
癡漢が、天下の
高笑に、腕を振って
後ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、
体を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が
真っ
盛りである。
六
丸顔に
愁少し、
颯と
映る
襟地の中から
薄鶯の
蘭の花が、
幽なる
香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。
糸子はこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つを
掌に折って、余る第二指のありたけにあれぞと
指す時、指す手はただ一筋の
紛れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは
指点す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは
指点す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
人に
指点す指の、
細そりと
爪先に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって
焼点を
構成る。
藤尾の指は爪先の
紅を抜け出でて縫針の
尖がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは
欄干を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に
懸りませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云う。
「父一人で忙がしいものですから、つい
御無沙汰をして……」
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「
向島は」
「まだどこへも行かないの」
宅にばかりいて、よくこう満足していられると藤尾が思う。――糸子の眼尻には答えるたびに笑の影が
翳す。
「そんなに御用が
御在りなの」
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く
路である。同時に日本橋へ行く路である。藤尾は相手を墓の
向側へ連れて行こうとした。相手は墓に向側のある事さえ知らなかった。
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この
袖は、この詩とこの歌は、
鍋、炭取の
類ではない。美くしい世に動く、美しい影である。実用の二字を
冠らせられた時、女は――美くしい女は――本来の面目を失って、無上の侮辱を受ける。
「
一さんは、いつ奥さんを御貰いなさるおつもりなんでしょう」と話しだけは
上滑をして前へ進む。糸子は返事をする前に顔を
揚げて藤尾を見た。戦争はだんだん始まって来る。
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を
眤と見る。針は
真逆の用意に、なかなか
瞳の
中には出て来ない。
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ
絡まってくる。藤尾はちょっと逃げて置く必要がある。
「どなたか心当りはないんですか。
一さんが貰うときまれば本気に
捜がしますよ」
黐竿は届いたか、届かないか、分らぬが、鳥は確かに逃げたようだ。しかしもう一歩進んで見る必要がある。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は
際どいところを少し出過ぎた。二十世紀の会話は巧妙なる一種の芸術である。出ねば要領を得ぬ。出過ぎるとはたかれる。
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる
捜索の綱を、ぷつりと切って、
逆さまに投げ帰した。糸子はまだ悟らぬ。
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの
不手際である。あたったのに
手答もなく
装わるるは
不器量である。女は不手際よりは不器量を無念に思う。藤尾はちょっと下唇を
噛んだ。ここまで
推して来て
停まるは、ただ勝つ事を知る藤尾には出来ない。
「あなたは
私の姉さんになりたくはなくって」と、素知らぬ顔で云う。
「あらっ」と糸子の頬に
吾を忘れた色が出る。敵はそれ見ろと心の
中で
冷笑って引き上げる。
甲野さんと
宗近君と相談の上取りきめた格言に云う。――第一義において活動せざるものは肝胆相照らすを得ずと。
両人の妹は肝胆の
外廓で戦争をしている。肝胆の中に引き入れる戦争か、肝胆の外に追っ払う戦争か。哲学者は二十世紀の会話を評して肝胆相曇らす戦争と云った。
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い
懸けられて、下宿の部屋のなかをぐるぐると廻った。何度廻っても逃げ延びられそうもない時、過去の友達に逢って、過去と現在との調停を試みた。調停は出来たような、出来ないような訳で、自己は依然として不安の状態にある。度胸を据えて、追っ懸けてくるものを
取っ
押える勇気は無論ない。小野さんはやむを得ず、未来を望んで
馳け込んで来た。
袞竜の袖に隠れると云う
諺がある。小野さんは未来の袖に隠れようとする。
小野さんは
蹌々踉々として来た。ただ蹌々踉々の意味を説明しがたいのが残念である。
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に
被せる
従容の紋付を、まだ
誂えていない。二十世紀の人は皆この
紋付を二三着ずつ用意すべしと先の哲学者が述べた事がある。
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。
便る未来が
戈を
逆まにして、過去をほじり出そうとするのは
情けない。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。
大抵の
嘘は
渡頭の舟である。あるから乗る。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの
欽吾さんといっしょに京都へ遊びにいらっしゃらないはずね。――兄なんぞはそりゃ
呑気よ。少し寝られなくなればいいと思うわ」
「ホホホホそれでも
家の兄より好いでしょう」
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って
退けたが、急に気がついて、
羽二重の
手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の
角を
彩どる金の筋がすっと外界に
映る。敵は首尾よくわが術中に
陥った。藤尾は第二の凱歌を揚げる。
「まだ京都から
御音信はないですか」と今度は小野さんが聞き出した。
「いいえ」
「だって
端書ぐらい来そうなものですね」
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが?
御叔母さんが? 鉄砲玉でたくさんよ。だから早く御嫁を持たしてしまわないとどこへ飛んで行くか、心配でいけないんです」
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると
顫える。
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、
手巾を出して、薄い
口髭をちょっと
撫でる。
幽かな
香がぷんとする。強いのは下品だと云う。
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の
方を
一さんに御世話なさいよ。京都には美人が多いそうじゃありませんか」
小野さんの手巾はちょっと
勢を失った。
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな
奇麗だと書いてあるのよ」
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「
無精に似合わない事ね。何と」
「
隣家の琴は御前より
旨いって」
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より
別嬪だと書いてあるんです。にくらしいわね」
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに
逢っちゃ
叶わない」
「でも、あなたの事は
褒めてありますよ」
「おや、何と」
「御前より
別嬪だ、しかし藤尾さんより悪いって」
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を
交えたる眼を輝かして、すらりと首を
後ろに引く。
鬣に比すべきものの波を起すばかりに見えたるなかに、玉虫貝の
菫のみが星のごとく
可憐の光を放つ。
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん
三条に
蔦屋と云う宿屋がござんすか」
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、
縋る未来に全く吸い込まれたる人は、
刹那の
戸板返しにずどんと過去へ落ちた。
追い懸けて来る過去を
逃がるるは
雲紫に立ち
騰る
袖香炉の
煙る影に、
縹緲の楽しみをこれぞと
見極むるひまもなく、
貪ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる
一拶に、結ばぬ夢は
醒めて、
逆しまに、われは過去に向って投げ返される。
草間蛇あり、容易に
青を踏む事を許さずとある。
「
蔦屋がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが
宿ってるんですって。だから、どんな
所かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な
旅屋じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が
聴えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の
隣家で美人が琴を
弾いてるのを、気楽に
寝転んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、
床の山吹を無意味に
眺めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子から
いいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の
音も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い
画が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を
解しかねる。
要らぬ事と黙って
控えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――
廻り
椽で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょう」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに
煙るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な
丸い山は――あの山が、青い
御供のように、こんもりと
霞んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を
傾げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
女詩人の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする
訳はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に
逆った時は、必ず人をもって
詫を入れるのが世間である。女王の
逆鱗は
鍋、
釜、
味噌漉の
御供物では直せない。役にも立たぬ五重の塔を
霞のうちに
腫物のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の
眉はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に
障ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
針鼠は
撫でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
五重の塔を持ち出せばなお
怒られる。琴の
音は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に
軽蔑を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるようだ。
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り
除けられた。女二人を調停するのは眼の前に
快からぬ言葉の果し合を見るのが
厭だからである。
文錦やさしき
眉に切り結ぶ火花の相手が、相手にならぬと見下げられれば、手を出す必要はない。
取除者を仲間に入れてやる親切は、取除者の方で、うるさく
絡ってくる時に限る。おとなしくさえしていれば、取り除けられようが、見下げられようが、当分自分の利害には関係せぬ。小野さんは糸子を眼中に置く必要がなくなった。切って出た藤尾にさえ
調子を合せていれば間違はない。
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を
軽蔑する
料簡ではない、ただ藤尾の御機嫌に重きを置いたまでである。しかもその答は真理である。ただ弱いものにつらく当る真理である。小野さんは詩のために愛のためにそのくらいの犠牲をあえてする。道義は弱いものの
頭に
耀かず、糸子は心細い気がした。藤尾の方はようやく胸が
隙く。
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人を
呪わば穴二つと云う。小野さんは是非共ええと答えなければならぬ。
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり
筋違に見えて、その先に
井桁があって、
小米桜が
擦れ擦れに咲いていて、
釣瓶が触るとほろほろ、井戸の中へこぼれそうなんです。……」
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん
擦り落ちて来る。重い雲がかさなり合って、
弥生をどんよりと抑えつける。昼はしだいに暗くなる。戸袋を五尺離れて、
袖垣のはずれに
幣辛夷の花が怪しい色を
併べて立っている。木立に
透かしてよく見ると、折々は二筋、三筋雨の糸が途切れ途切れに
映る。斜めにすうと見えたかと思うと、はや消える。空の中から降るとは受け取れぬ、地の上に落つるとはなおさら思えぬ。糸の命はわずかに尺余りである。
居は気を移す。藤尾の想像は空と共に
濃かになる。
「小米桜を二階の
欄干から御覧になった事があって」と云う。
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の
後ろは建仁寺の垣根で、垣根の向うで琴の
音がするんです」
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと
隣家の庭がすっかり見えるんです。――ついでにその庭の作りも話しましょうか。ホホホホ」と藤尾は高く笑った。冷たい糸が辛夷の花をきらりと
掠める。
「ホホホホ
御厭なの――何だか暗くなって来た事。花曇りが
化け出しそうね」
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから
直すいと
追懸けて来る。見ているうちにすいすいと幾本もいっしょに通って行く。雨はようやく繁くなる。
「おや
本降になりそうだ事」
「
私失礼するわ、降って来たから。御話し中で失礼だけれども。大変面白かったわ」
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に
崩れた。
七
燐寸を
擦る事
一寸にして火は
闇に入る。幾段の
彩錦を
捲り終れば無地の
境をなす。春興は
二人の青年に尽きた。狐の
袖無を着て天下を行くものは、日記を
懐にして百年の
憂を
抱くものと共に
帰程に
上る。
古き寺、古き
社、神の森、仏の丘を
掩うて、いそぐ事を
解せぬ京の日はようやく暮れた。
倦怠るい夕べである。消えて行くすべてのものの上に、星ばかり取り残されて、それすらも
判然とは映らぬ。
瞬くも
嬾き空の中にどろんと溶けて行こうとする。過去はこの眠れる奥から動き出す。
一人の一生には百の世界がある。ある時は土の世界に入り、ある時は風の世界に動く。またある時は血の世界に
腥き雨を浴びる。一人の世界を方寸に
纏めたる
団子と、他の清濁を混じたる団子と、層々
相連って千人に千個の実世界を活現する。個々の世界は個々の中心を
因果の交叉点に据えて分相応の円周を右に
劃し左に劃す。
怒の中心より
画き去る円は飛ぶがごとくに
速かに、恋の中心より振り
来る円周は
の
痕を
空裏に焼く。あるものは道義の糸を引いて動き、あるものは
奸譎の
圜をほのめかして
回る。縦横に、前後に、
上下四方に、乱れ飛ぶ世界と世界が喰い違うとき
秦越の客ここに舟を同じゅうす。
甲野さんと
宗近君は、
三春行楽の興尽きて東に帰る。
孤堂先生と
小夜子は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で
端なくも喰い違った。
わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と
他の世界と喰い違うとき二つながら崩れる事がある。
破けて飛ぶ事がある。あるいは
発矢と熱を
曳いて無極のうちに物別れとなる事がある。
凄まじき喰い違い方が
生涯に一度起るならば、われは幕引く舞台に立つ事なくして
自からなる悲劇の主人公である。天より賜わる性格はこの時始めて第一義において躍動する。八時発の夜汽車で喰い違った世界はさほどに猛烈なものではない。しかしただ
逢うてただ別れる
袖だけの
縁ならば、星深き春の夜を、名さえ
寂びたる
七条に、さして喰い違うほどの必要もあるまい。小説は自然を
彫琢する。自然その物は小説にはならぬ。
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく
幻のごとく、二百里の長き車のうちに喰い違った。二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、いかなる人の運命をいかに東の
方に
搬び去ろうか、さらに
無頓着である。世を
畏れぬ
鉄輪をごとりと
転す。あとは
驀地に
闇を
衝く。離れて合うを待ち
佗び顔なるを、
行いて帰るを快からぬを、旅に馴れて
徂徠を意とせざるを、一様に
束ねて、ことごとく
土偶のごとくに
遇待うとする。
夜こそ見えね、
熾んに
黒煙を吐きつつある。
眠る夜を、生けるものは、
提灯の火に、皆七条に向って動いて来る。
梶棒が下りるとき黒い影が急に明かるくなって、待合に入る。黒い影は暗いなかから続々と現われて出る。場内は生きた黒い影で
埋まってしまう。残る京都は定めて静かだろうと思われる。
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、
十把一束に夜明までに、あかるい東京へ
推し出そうために、汽車はしきりに煙を吐きつつある。黒い影はなだれ始めた。――一団の塊まりはばらばらに
解れて点となる。点は右へと左へと動く。しばらくすると、無敵な音を立てて
車輛の戸をはたはたと締めて行く。
忽然としてプラットフォームは、
在る人を
掃いて捨てたようにがらんと広くなる。大きな時計ばかりが窓の中から眼につく。すると
口笛が
遥かの
後ろで鳴った。車はごとりと動く。互の世界がいかなる関係に織り成さるるかを知らぬ
気に、闇の中を鼻で行く、甲野さんは、宗近君は、孤堂先生は、可憐なる小夜子は、同じくこの車に乗っている。知らぬ車はごとりごとりと廻転する。知らぬ四人は、四様の世界を喰い違わせながら暗い夜の中に入る。
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は
淋しいだろう。今頃は」
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。
蔦屋の
隣家に住んでる親子なんか、まあそんな連中だね。随分ひっそり暮してるぜ。かたりともしない。あれで東京へ行くと云うから不思議だ」
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、
家を畳んで引っ越すんだそうだ」
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは
独り
言のように云う。
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は
頭陀袋を
棚へ上げた腰を
卸しながら笑う。相手は半分顔を
背けて
硝子越に窓の外を
透して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。
轟と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何
哩くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ
胡坐をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。
向の
棚に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の
頂を
顫わせている。
給仕が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を
眠っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は
轟と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――
余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは
賞める時の言葉なんだがな」
「千里の
江陵一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を
緘じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって
轟と走る。二人の世界はしばらく
闇の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い
夜を糸のごとく照らして動く電灯の
下にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて
小夜と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の
住居に、
盂蘭盆の
灯籠を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の
精霊を、東京の
苧殻で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。
乗し
掛る
怒は、
撫で
下す絹しなやかに
情の
裾に
滑り込む。
紫に
驕るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に
連なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる
丈長を
顫わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ
滴たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて
赫と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に
透って、
当時を裏返す折々にさえ
鮮かに
煮染んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、
春寒の
懐に暖めつつ、黒く動く一条の車に
載せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを
抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には
緑りを
衝き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を
抱く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を
暗闇の遠きより切り放して、現実の前に
抛げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き
逢うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに
の下に白くなる
疎髯を握っては
昔しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き
籠って容易には出て来ない。
漠々たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。
恋々たるわれを、つれなく見捨て去る
当時に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は
胡麻塩交りの
髯をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは
幾歳の時だったかな」
「学校を
廃めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に
嵐山へ連れていっていただいたでしょう。
御母さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の
団子もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら
三軒茶屋の
傍で
喫べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。
御母さんも丈夫だったがな。ああ早く
亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分
蒼い顔をしてね、そうして何だか
始終おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が
柔和いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う
性質の好い男でも、あのまま
放って置けばそれぎり、どこへどう
這入ってしまうか分らない」
「本当にね」
明かなる夢は輪を
描いて胸のうちに
回り出す。死したる夢ではない。五年の底から浮き
刻りの深き記憶を離れて、
咫尺に飛び上がって来る。女はただ
眸を
凝らして眼前に
逼る夢の、明らかに過ぐるほどの光景を右から、左から、前後上下から見る。夢を見るに心を奪われたる人は、老いたる親の
髯を忘れる。小夜子は口をきかなくなった。
「小野は新橋まで
迎にくるだろうね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び
躍る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを
駛ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を
眠る。人も犬も草も木も
判然と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、
転りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を
抱いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと
逆う風を打つ。追い懸くる
冥府の神を、力ある尾に
敲いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く
煙る向うが一面に
競り上がって来る。
茫々たる原野の
自から尽きず、しだいに天に
逼って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、
眼を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の
代を空に鳴く
金鶏の、
翼五百里なるを一時に
搏して、
漲ぎる雲を下界に
披く大虚の
真中に、
朗に浮き出す
万古の雪は、末広になだれて、八州の
野を圧する勢を、左右に展開しつつ、
蒼茫の
裡に、腰から下を
埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、
紫の
襞と
藍の襞とを
斜めに畳んで、白き
地を不規則なる
幾条に裂いて行く。見上ぐる人は
這う雲の影を沿うて、
蒼暗き
裾野から、藍、紫の深きを
稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、
豁然として眼が
醒める。白きものは明るき世界にすべての乗客を
誘う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を
滑り下りながら、窓をはたりと
卸す。広い
裾野から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは
駱駝の
毛布を頭から
被ったまま、存外冷淡である。
「そうか、
寝なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「
叡山よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変
軽蔑するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い
退けて動いた」と宗近君は
頭陀袋を
棚から取り
卸す。
室のなかはざわついてくる。明かるい世界へ
馳け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
窓から肉の落ちた顔が半分出る。
疎髯を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に
若干の銀貨を握って、
へぎ折を取る左と
引き
換に出す。御茶は部屋のなかで娘が
注いでいる。
「どうだね」と折の
蓋を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには
長芋の
白茶に寝転んでいる
傍らに、
一片の玉子焼が黄色く
圧し
潰されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は
箸を
執らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた
箸を
眺めながら、ぐっと飲む。
「もう
直ですね」
「ああ、もう訳はない」と
長芋が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が
奇麗に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ
這入る。
「小野さんは宿を
捜がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、
喫飯と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で
米沢絣の
襟を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている
手提革鞄を
跨いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、
蹴爪ずくと危ない」と注意した。
硝子戸を押し
開けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、
真直に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が
後ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、
硬過ぎてね。――
阿爺のように年を取ると、どうも
硬いのは胸に
痞えていけないよ」
「御茶でも上がったら……
注ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、
尽十方に飛び
交わす小世界の、
普ねく
天涯を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを
厭わず植えつけし
蚕の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く
夜半を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は
掃き落されて、大空の皮を奇麗に
剥ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち
上る窓の
中に、四人の小宇宙は
偶を作って、ここぞと互に
擦れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い
卓布を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは
献立表を
眺めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。
昨夕京都の
停車場では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで
膏ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は
肉刺を
逆にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々
情けなさそうに白い
膏味を
頬張る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「
猶太人は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「
猶太人はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――
給仕紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を
外してしまう。
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に
懸想して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で
顎を
支えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に
据えたままぼんやり向うを見ている。
「
蜜柑が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と
毫も心配にならない
気色で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と
挨拶も聞く
料簡はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を
真面目に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から
赤児だね。しかし兄思いだよ。狐の
袖無を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ
肱突でも
造えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に
拡げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに
擦れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる
明日の世界を擁して新橋の
停車場に着く。
「さっき
馳けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、
停車場に突き当って、しばらく、ばらばらとなる。
八
一本の
浅葱桜が夕暮を庭に曇る。拭き込んだ
椽は、立て切った障子の外に静かである。うちは小形の
長火鉢に
手取形の
鉄瓶を
沸らして前には
絞り
羽二重の
座布団を敷く。布団の上には
甲野の母が
品よく
座っている。きりりと釣り上げた眼尻の尽くるあたりに、
疳の
筋が裏を通って額へ突き抜けているらしい
上部を、浅黒く
膚理の細かい皮が包んで、外見だけは
至極穏やかである。――針を海綿に
蔵して、ぐっと握らしめたる後、柔らかき手に
膏薬を
貼って
創口を快よく慰めよ。出来得べくんば
唇を血の出る局所に
接けて他意なきを示せ。――二十世紀に生れた人はこれだけの事を知らねばならぬ。骨を
露わすものは
亡ぶと甲野さんがかつて日記に書いた事がある。
静かな椽に足音がする。今
卸したかと思われるほどの
白足袋を張り切るばかりに細長い足に見せて、変り色の厚い
の椽に引き擦るを軽く
蹴返しながら、
障子をすうと開ける。
居住をそのままの母は、濃い
眉を半分ほど入口に傾けて、
「おや
御這入」と云う。
藤尾は無言で
後を締める。母の
向に火鉢を隔ててすらりと坐った時、
鉄瓶はしきりに鳴る。
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を
俯目に眺める。――鉄瓶は依然として鳴る。
口多き時に
真少なし。鉄瓶の鳴るに任せて、いたずらに差し向う親と子に、椽は静かである。浅葱桜は夕暮を誘いつつある。春は
逝きつつある。
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は
一瞥に
籠る。熱に
堪えざる時は骨を
露わす。
「ふん」
長煙管に
煙草の殻を
丁とはたく音がする。
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、
彼人の
料簡ばかりは
御母さんにも分らないね」
雲井の煙は
会釈なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても
同じ事ですね」
「同じ事さ。
生涯あれなんだよ」
御母さんの
疳の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「
家を
襲ぐのがあんなに
厭なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから
悪いんだよ。あんな事を云って
私達に
当付けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから
今日までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。
煮え切らないっちゃありゃしない。
彼人の顔を見るたんびに
阿母は
疳癪が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、
不知を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を
孕む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが
滅多にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、
御廃しなさい、
阿母さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ
閉じ
籠って寝転んでるしさ。――そうして
他人には財産を藤尾にやって自分は
流浪するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「
宗近の
阿爺の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない
性質ですね。それより早く
糸子さんでも
貰ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの
料簡はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る
鉄瓶を
卸して、炭取を取り上げた。
隙間なく
渋の
洩れた
劈痕焼に、二筋三筋
藍を流す波を
描いて、
真白な桜を気ままに散らした、
薩摩の
急須の中には、緑りを細く
綯り込んだ
宇治の葉が、
午の湯に
腐やけたまま、ひたひたに重なり合うて冷えている。
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は
疾く抜け出した
香のなお余りあるを、急須と同じ色の茶碗のなかに畳み込む。黄な流れの底を
敲くほどは、さほどとも思えぬが、
縁に近くようやく色を増して、濃き水は
泡を
面に片寄せて動かずなる。
母は
掻き
馴らしたる灰の盛り上りたるなかに、
佐倉炭の白き
残骸の
完きを
毀ちて、
心に潜む赤きものを片寄せる。
温もる穴の
崩れたる中には、黒く輪切の正しきを
択んで、ぴちぴちと
活ける。――室内の春光は
飽くまでも
二人の
母子に穏かである。
この作者は趣なき会話を嫌う。
猜疑不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。
閑花素琴の春を
司どる人の歌めく
天が
下に住まずして、
半滴の
気韻だに帯びざる野卑の言語を
臚列するとき、
毫端に泥を含んで双手に筆を
運らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の
急須と、佐倉の切り炭を
描くは瞬時の
閑を
偸んで、
一弾指頭に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は
昔しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。
嬉しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の
切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
「宗近と云えば、
一もよっぽど
剽軽者だね。学問も何にも出来ない癖に大きな事ばかり云って、――あれで当人は立派にえらい気なんだよ」
厩と
鳥屋といっしょにあった。
牝鶏の馬を評する語に、――あれは
鶏鳴をつくる事も、
鶏卵を生む事も知らぬとあったそうだ。もっともである。
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。
普通のものなら、もう少し奮発する訳ですがねえ」
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は
滑らかな
頬に波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。
砲兵工廠の鉄砲玉は鉛を
鎔かして
鋳る。いずれにしても鉄砲玉は鉄砲玉である。そうして母は
飽くまでも
真面目である。母には娘の笑った意味が分からない。
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、
端なくも母の疑問を起す。子を知るは親に
若かずと云う。それは違っている。御互に喰い違っておらぬ世界の事は親といえども
唐、
天竺である。
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき
眉の下から、娘を
屹と見た。意味は藤尾にちゃんと分っている。相手を知るものは騒がず。藤尾はわざと落ちつき払って母の切って出るのを待つ。掛引は親子の間にもある。
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための
下拵と見える。
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。
筍を輪切りにすると、こんな風になる。
張のある
眉に風を起して、これぎりでたくさんだと締切った口元になお
籠る何物かがちょっと
閃いてすぐ消えた。母は
相槌を打つ。
「あんな見込のない人は、
私も好かない」
趣味のないのと見込のないのとは別物である。
鍛冶の
頭は
かんと打ち、相槌は
とんと打つ。されども打たるるは同じ
剣である。
「いっそ、ここで、
判然断わろう」
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども
阿爺が、あの金時計を
一にやると御言いのだよ」
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を
玩具にして、赤い
珠ばかり、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって
繰っ
着いて行くかも知れないが、それでも好いかって、
冗談半分に
皆の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに
謎だと思ってるんですか」
「宗近の
阿爺の
口占ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の
角に
敲きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える
柘榴石は、
蒔絵の
蘆雁を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。
朧とも化けぬ
浅葱桜が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今
少時と
護る
椽に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、
瘠面の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。
障子のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな
灯が宗近家の座敷に
点る。静かなる夜を陽に返す
洋灯の笠に白き光りをゆかしく
罩めて、
唐草を一面に高く
敲き出した白銅の
油壺が晴がましくも
宵に曇らぬ色を誇る。
灯火の照らす限りは顔ごとに
賑やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この
灯火の
周囲に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを
恰好と思う。
「それじゃ
相輪も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた
顎はやむを得ず
二重に折れている。頭はだいぶ
禿げかかった。これを時々
撫でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪
た何ですか」と宗近君は
阿爺の前で変則の
胡坐をかいている。
「アハハハハそれじゃ
叡山へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、
甲野さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の
襟を正しく坐っている。甲野さんが問い
懸けられた時、
然な糸子の顔は
揺いた。
「相輪
はなかったようだね」と甲野さんは手を
膝の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「
阿爺何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと
若狭の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは
冗談さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に
二重瞼の波を寄せた。
「一体御前方はただ
歩行くばかりで
飛脚同然だからいけない。――叡山には
東塔、
西塔、
横川とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。
灯火は明かに揺れる。糸子は
袖を口へ当てて、
崩しかかった笑顔の収まり
際に
頭を上げながら、
眸を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな
作略はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「
御叔父さん、東塔とか西塔とか云うのは何の名ですか」
「やはり
延暦寺の区域だね。広い山の中に、あすこに
一と
塊まり、ここに一と塊まりと坊が
集まっているから、まあこれを三つに分けて東塔とか西塔とか云うのだと思えば間違はない」
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「
東は
修羅、
西は都に近ければ
横川の奥ぞ住みよかりけると云う歌がある通り、横川が一番
淋しい、学問でもするに好い所となっている。――今話した
相輪から五十丁も
這入らなければ行かれない」
「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の
船弁慶にもあるだろう。――かように
候ものは、
西塔の
傍に
住居する武蔵坊弁慶にて候――弁慶は西塔におったのだ」
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――
阿爺さん
叡山の総長は誰ですか」
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「
開基かい。開基は
伝教大師さ」
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体
昔しの男は酔興だよ。ねえ甲野さん」
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は
御前、叡山の
麓で生れた人だ」
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う
棒杭が坂本に建っていましたよ」
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は
想こそ
無上なれと説いた。
逝く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今
載せて
杳然と去るを思わぬが世の常である。堂に
法華と云い、石に
仏足と云い、
に
相輪と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を
記して
吾事畢ると思うは
屍を
抱いて活ける人を
髣髴するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。
太上は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが
叡山に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。
大法鼓を鳴らし、
大法螺を吹き、
大法幢を
樹てて王城の鬼門を
護りし
昔しは知らず、中堂に仏眠りて
天蓋に
蜘蛛の糸引く
古伽藍を、
今さらのように
桓武天皇の
御宇から堀り起して、無用の
詮議に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある
閑人の
所作である。現在は
刻をきざんで
吾を待つ。
有為の天下は眼前に落ち
来る。双の
腕は風を
截って
乾坤に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山
一刹の指揮によって、
夜来、
日来に面目を新たにするものじゃと思い
籠めたように、
々として叡山を説く。説くは
固より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を
択んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな
贅沢になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外
真面目である。
「
阿爺叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで
蕎麦を食いに行くそうですよ」
「アハハハ
真逆」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それは
のらくら坊主だろう」
「すると僕らは
のらくら書生かな」
「御前達は
のらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「
到底のらくらじゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を
競り出して笑った。
洋灯の
蓋が
喫驚するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、
僧侶にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは
一乗止観院と云って、延暦寺となったのはだいぶ
後の事だ。その時分から妙な
行があって、十二年間山へ
籠り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする
了見かな」
と宗近君が今度は
独語のように云う。
「修業するのさ。御前達もそう
のらくらしないでちとそんな
真似でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に
背く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ
籠ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
一座はどっと
噴き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を
逆に撫でる。垂れ懸った頬の肉が
顫え落ちそうだ。糸子は
俯向いて声を殺したため
二重瞼が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから
億劫だ。――
欽吾さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも
籠る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しかし
阿母さんが心配するだろう」
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは
一人もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは
眇然として天地の
間に
懸っている。世界滅却の日をただ
一人生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「
一にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
老人は自分の心で、わが母の心を
推している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱり
のらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
今夕の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。
続き